昭和四十八年七月二十二日 御神訓
一、真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。
教規前文一節
一、神と人とは氏子あっての神、神あっての氏子の関係にある。この道理を知らぬところからあらゆる迷いが起こるのであって、ここに人生の難儀がある。人間の難儀は神の苦しみであり、人間が助かることが、神も助かる事である。この道理を人に伝え、人の願いを神に祈って人を救い神を助ける働きが生神金光大神の取次である。
教規前文の一節です。この道理を人に伝えこの道理を人に伝えと取次の中に、ここはありますんですから、この道理を私共は聞き、そして知らねばならない。人間の願いを神に祈り神を助ける働きがそこから生まれるんだ。只お願いをしてお取次を願うと云うだけではない。道理を聞いて道理に合うた生き方をするところから人間の難儀の元と云うのは、氏子あっての神、神あっての氏子の関係にある。この道理を知らぬところから、あらゆる迷いが起こるのであって、ここに人生の難儀がある。
皆さんそこんにきが分かっとるでしょうか。そこが先ず分からなければ人間の難儀が絶えないのです。同時に取次願ったら、道理を人に伝えと、これは金光大神ですよ、金光大神が道理を人に伝えて下さる。私共に聞かせて下さる。
ですから、その道理を伝え聞かせて貰うです、聞き伝えてです、そして人を真心一心を捧げる道と云われるのですから、この道理を説いて下さる中心は真心一心と云うことです。
それをしかも捧げてのお取次を願うと云う生き方、そこから本当のおかげが頂かれる。
真心の道を迷わず失わずとここに云うておられる。信心とは真心の道と書いてある。ここにありますね。真心の道と・・
だから一般で云う信心の道とは、あの信心じゃない。信ずるの信ではなくて金光様の信心は何処までも真心の道である。
しかもそれを一心と立てるのである。しかもそれを捧げるのである。一心の真を捧げるところから、人間の幸福が得られる。
それには教規前文に読み上げましたところの神と人との関係と云うものを私共先ずは知らなければならんのです。
昨日堤さんところの清さんの百日祭が此処で行われました。ほんの内々だけで北野の地区の方達がお参りになっとるだけで、ほんの内々だけでしたけれども、大変丁寧なお祭りでした。そのお祭り後に皆さんに聞いて頂いたんですけれどもね、私はどういう小さいお祭りでも、お祭りを仕える時には必ず体を必ず清めます。宅祭に参りましても、私は必ずお風呂を沸かしといて貰う。一寸した霊のお祭りでも必ず体を清めて、そしてお祭りにかかるんです。その体を清めると云うだけでも有難くなるんです。
だから私、昨日皆さんに申したんですけれどもね、特別のお願いでもする時にはね、お水位頂いて御神前に出てごらん。どれだけでも有難いからと申しました。それがまして心を清めると云うことになれば、いよいよおかげ頂くじゃなくて、いよいよ有難くなってです、こちらが。
私はね、真心の道、いわゆる真心の道、金光教の道はね、そういう事だと思うです。体を清めるだけでも何とはなしに気分的に有難いなあ、御神前にこれで進まれると云う感じが致します。
理屈を云やあそういう事はどうでも良い様にあるんですけれども、実際に実感としてそうした方がやはり有難いのである。
仕事着なりに御祈念をするよりも、やはりエプロンの一つも除かせて羽織の一つも引っかけて、例えば御祈念をする。形の上でその方が有難いです。やはりね、ましてや私共の心を清めると云う事に、例えば精進させて頂いたらおかげを頂くと云うことではなくてね。 より有難くなる事だけは間違いない。その有難いと云う心で御霊様を拝み、神様へ礼拝させて頂くのですからおかげになるのです。 お道で云う信心の道と云うことは、真心の道と云う事なのですけれど、その真心の道と云うのが、なら何処から生まれて來るのが本当の真心の、これは真心と云うのは限りがありません。
けれども、汚い心から生まれて來る真心と云うでしょうか。
私はもう真心一杯でございますと云うたっちゃ、根性の悪い、意地の悪い汚いそういう中から生まれて來る真心は大したことはないです。いえこれは私の真心で、
私の真心を相手が踏みにじったなんて云う時には、もう必ずね、余り良くない真心だ。踏みにじられる位です。だからいわゆる形の上に清めても有難いのですからその有難いと云う心なんです。神様が求められるのは。
その上自分の心を清めることにあらゆる角度から一切を清める材料として頂いて、清めることに努めるのですから、清めるからおかげを受けるのではなくて、清めるから有難くなるのです。その有難い心でおかげはキャッチするのです。
真に有難いと思う心すぐに霊験のはじめと仰る。
昨日聞かせて頂いたんですけれども、清さんの妹さんがせいこさんと云う。昨日お夢を頂いた。御本部参拝をさして貰うた。そして清さんと合うた。兄さんとそして清さんが云うことが、神様から免許証を貰うとるから楽だと。けれども、とっても疲れると云うた相です。
先日は壱岐の末永先生が、末永先生ところのお広前にお参りしてきた。そして清さんが言われるのに教師の資格を頂いたと云うことを云うとる。云うなら人の難儀を取次助けられる程しの免許証を頂いておると。けれども、疲れると云うことはどういう事だろうかと、堤さんここはいっちょ良う考えなければいけないよ。あんたどんが親子兄弟してお父さん、家内子供達もよう考えなきゃいけないよと云うて、お話したことでした。
どんなに神様の働きが氏子可愛いの一念で働きかけて下さってもです、こちらがそれを、今申します有難い心でそれを受けようとする働きがなからなければ、それを表すことは出来んのです。
霊様が教師の資格も取られた。人の難儀も取次助けられる程しの力も受けられたけれどもです、家の中での堤さん一家の信心がそこのところに気が付かずに、分からなかったら息子が一生懸命働いとるけれども、その働きを十二分に受けることが出来ない。
私はお知らせに頂いたのが、琴が琴は十三弦ですかね、あれに三本だけ駒がかかっとるところを頂いた。三本では良い・・音はしましょうけれども、良い音色が出る筈はありません。それは曲を弾きこなすことは出来ません。だからこれだけまだ足りんとですよと真が、・・琴と云う琴は私は真と思った。それでのうでも、清さんが亡くなってこの方、成程世間の者は、又は信薄き者は又様々にそれを取り沙汰もする。それが耳にも入って來る。あれ程信心しござってから、どうしてああ云うことになったじゃろうか。しかもあんな親孝行な人があの若さでどうした事であったであろうか。しかも教会でのうやと云った様な話が、あんた達、私にでも入って來るのだから、堤さんの家にも入って來るだろうけれどもね、人の口には戸は立てられん。
私が今日お知らせを頂いたのはね、丁度三味線を弾いているんです。その三味線を爪弾きしているところを頂いた。
三味線と云うものは、バチで弾くものです。だから清さんが云いたいことはですね、私が死んだのは決してお気付けでもないですよ。罰でもないですよと、云う意味なんです。バチで弾いとるのじゃない。爪弾きと云うことは、つまと云うことは家中と云うこと。家内とは家中と云うこと。家中の者を導く為、堤の家が本当に助かることの為に、それは長生きとか早死にとかとあるけれども、これは私の寿命であって、人がどうしたことじゃろうか、罰被らっしゃったっちゃなかろうかと云いよるけれども、それは聞き流して下さいよ。私が死んだのは御神意の中におかげをいただいて亡くなっておるのですよと、バチやありませんよ爪弾きですよと御理解頂いたです。 それで私は申しました。昨日ね、善導寺の原さんがここでお届けされました。隣の八百屋のおばさんが、おばしゃん、あなたはお父さんが亡くなって、いっちょも悲しい顔をしとらんが、そげんどうんなかったですかと云わっしゃった。そげな段じゃなか。もう本当に亡くなる時にはそりゃ大変悲しかった。亡くなる前日でした。初めて下の方を汚しました時、もう本当に真からまんから真心込めてお掃除させて頂きよったら、もう本当になめたっちゃよか気色が起こりました。御霊様の働きもさることながら、神様の働きをよう・・・・ようと云うことじゃないけれども、段々分からせて頂いたらこれは悲しいことではない、むしろこれは御礼を申し上げねばならないことであった。次には十日祭を仕えねばならぬ。二十日祭、三十日とそして五十日祭と私はそのお祭りを仕えるのが楽しゅうてたまらん。宅祭りを仕えるごと楽しいと話した。はは信心ちゃ有難かのちゅうて八百屋のばばしゃんが云わっしゃったと云う話をされましたと昨日お届けを原さんがされましたから、その話をした。
どうしてこういう難儀なことに、亡くなられてこの方の事を思うてごらん、おかげで借金払いも出来た、沢山保険がかたってあった。おかげで商売の方も、どうにも出来ない問題が次々と解決して行った。昨日堤さんが云っておられるのに、もうおかげで風呂にも一人で入られるようになったと昨日云っとります。とてもとても御霊様の働きと思わにゃ居られまいがと、たった三本の位しか糸はかかってない、真は。それでもおかげだから、その気になって例えば清める。信心と云うことはおかげを受けると云うことではなくて、本心の玉を研くと云うこと。日々の改まりが第一と云う事なのですから、私達これは私のことですけれども、弟の戦死を聞いたその月から、私は御本部の月参りを初めとります。そういう難儀なところを、そりゃ悲しいことそこから一段と信心を進めておる。そこに弟の御霊の働きと云うものをキャッチすることが出来た。神様の働きを表すことになって今日の合楽があるのですよ。
信心ちゃ、おかげを頂くことではない。清めると云うこと。
それはお水をかかっただけでも有難いとですから、心を清めるならもっと有難くなる。その有難いという心で清さんの霊様の働きを表さにゃいけないよと云うて昨日話したことです。
子供がもう勉強が出来ん。これがもう一家中で苦になっとる訳です。まあ本当に出来んらしいです。それはもう、ひちくどらしゅう勉強が出来ますようにと云うて、お取次願っとります。参って來る度に願うんです。ところが、昨日私は聞かせて頂いたら、子供がやっぱりお父さんが亡くなったと云うところからです、長男の智城さんがね、農家の農機具のテーラーなんか自分で使うそうです。これは本当に、そして機械いじるとか非常に好きで勉強は出来んでも、機械そのことにこの人はそんなに情熱を燃やす、機械扱うことに。その代わりくずしもすりゃいろいろするそうです。
それがとてもそれに興味を持ってそれにテーラーなんかでも子供が使います。そして昨日云ってましたが、昨日善導寺の原さんが亡くなる前の日には、原さんが亡くなられると云うお知らせを清さんがお夢の中にお知らせと云うことを昨日話してました。そういう働きをですね、御霊様が出来ておると云うことです。
だからどういう徳のある先祖が居ってもです、徳は残るもんだけれども、徳を表す働きがなかったら表すことが出来ん。
これは神様の働きでもそうなのだ。それを表すものは何かと云うと、一心の真を捧げねばならないと云うことです。
先程教規前文を読ませて頂いた。理屈の上ではそれなんだ。人間の難儀とはそういう神様と人間の間の関係を知らず、そこから人間の難儀と云うものがある。その道理を皆さんに伝えて、そして神に祈って氏子が助けられてゆく働きをするのが金光大神。なら、その道理を語ると云うことは今日はそのおかげを頂かせて貰う道理を皆さんに聞いて頂いた。
只、願っただけじゃいかん。一心の真。先ず清めなければならん。改めなければならん。形の上の清めただけでも有難いのだから、心を清めることになれば、尚更有難いのだ。その有難いと云う心で神様の働きをキャッチする、表して行く。そういう信心をいよいよ末の末までも教え伝えて行けと教えて居られるのです。信心の道をと云うことを此処では真心の道をと教えておられます。
ですから、私共の真心と云い、真と云いです、それはもう限りがありません。だから限りがない程しにその真心の追求をして行かねばなりません。それには限りなく私が日々清めることに精進努力させて頂かねばならんちゅうことがわかります。それが有難いのです。信心とはだから有難いのです。その有難い心でおかげはキャッチして行くんです。受けて行くんです。又は表して行くのです。
どうぞ。